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尾崎 行雄(おざき ゆきお、1944年9月11日 - 2013年6月13日)は、大阪府泉大津市出身のプロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 同姓の政治家である尾崎行雄にあやかって同じ名を付けられた。元々左利きだったが、小学5年生の時に右投げに転じた。右投げから左投げへの転向はよくあるが、左投げから右投げに転向は珍しい事例だった〔甲子園高校野球人名事典68P、森岡浩、東京堂出版、2004年、ISBN 978-4490106503〕。浪商高校(現・大阪体育大学浪商高)2年時にの第43回全国高等学校野球選手権大会で優勝投手となり、怪童と呼ばれた。前年夏の甲子園から三度にわたる法政大学第二高等学校の柴田勲との対決は名勝負として知られる。 、1年生の時に、1年上の大塚弥寿男捕手とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。2回戦で法政二高と当たるが、柴田勲投手との最初の対決は0-4で完封負けに終わった。法政二高はこの大会で優勝。翌1961年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝でまたも法政二高と対戦、3回に先制するが1-3で逆転負け。法政二高は夏春連続優勝を飾る。夏の選手権は準決勝で法政二高と三度目の対決。9回に2点差を追いつき、延長11回の熱戦の末2-4で初勝利、決勝に進出する。決勝では左腕エース森川勝年(慶大-松下電器)を擁する桐蔭高に苦戦するが、1-0で降し優勝。大塚以外の1年上のチームメートに大熊忠義三塁手、住友平二塁手、1年下に高田繁外野手がいた。高田は、後年「今まで実際に見た投手の中で、真っすぐは誰がすごいの、って言ったら尾崎さんだね」と語っている〔高田繁、浪商エースで甲子園立てず…投手断念 〕。 同年11月6日に高校を中退〔『朝日新聞』1961年11月8日付朝刊 (12版、7面)〕し、11月14日に東映フライヤーズへの入団を表明した〔『朝日新聞』1961年11月15日付朝刊 (12版、7面)〕。1年目のには初登板で勝利投手になるなど20勝9敗、防御率2.42の成績で新人王に選出された〔年度別成績 1962年 パシフィック・リーグ 〕。18歳での新人王は現在に至るまで史上最年少である。からまで3年連続で20勝を記録し、には27勝を挙げて最多勝を獲得した〔年度別成績 1965年 パシフィック・リーグ 〕。しかし指にマメの出来る体質に苦しみ、また酷使の影響もあって肩を痛め、以降は勝星から遠ざかる〔。に29歳で現役を引退。プロ通算107勝を挙げ、夏の甲子園の優勝投手としては戦後初のプロ通算100勝投手となった。 非常に球の速かった投手で、右肩痛を発症するまでは球種のほとんどがストレートであった。プロ野球史上における速球投手の話題では、必ずと言ってよいほど名前が挙がる選手である。中京大学体育学部湯浅景元教授の計算によると、尾崎の全力投球の球速は160.2キロを計測していた。 引退後はレストランを経営した後、スポーツ関係の会社に勤務〔。少年野球の指導を行っていた〔。2013年6月13日に肺がんのため死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾崎行雄 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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